675 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/17(金) 18:46:59 ID:y0yRgUmU
ddddddd父方の爺ちゃんは陸軍。戦争の話は聞いたことない。
今も実家には当時携帯して行った村人の寄せ名のある国旗が飾ってある。
60歳前半の時に戦友数人が集まって再び中国に行きたいと言って旅行に行き、万里の長城を歩いた後
に脳溢血、急逝。
どんな運命だよ…今でも婆ちゃんの家には戦友からの年賀状が届く。

母方は海軍。教官みたいな立場だったらしい。
満州で大砲がどうのこうのという話をしていたが俺は小さかったのでよく聞いてなかった。
満州とかシナの単語はこの人から聞いて覚えた。古臭い感じがして、シナという言い方はあまり好きじゃなかった。
海軍時代に貰った国璽がある賞状に毎朝手を合わせてから仕事に行ってた。
俺は小学生の頃、はだしのゲンを読みまくっていたせいで、帝国軍=悪鬼のイメージに完全に洗脳されてた。
でも、帝国軍=自分の祖父=悪鬼という帰結への違和感がどうしても消せなかった。
全く非論理的ではあるけど、帝国軍≠祖父のように無意識的に切り離して考えたように思う。
そのせいか、あまり積極的に戦争の話を聞こうとは思わなかった。
聞いてしまうと祖父=悪鬼という結論だけが待っているような気がして怖かった。
何も聞けないまま70前半で無くなった。敬老の日だった。

あれから20年。
もっと話を聞いて、その精神を学ぶべきだったと後悔してます。
二人ともまじめで自分に厳しい人達でした。
祖先の墓に誇りを持って、そしてありがとう、と今は言いたい。




692 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/18(土) 10:49:52 ID:PNnuKH2h
俺の町の話
俺の町には日清戦争当時、爆弾三勇士になられた方がいた。
当然、国から勲章と多大な報奨金が出たんだがその親は持ちなれない金を戴いたために
「俺の息子は爆弾三勇士だ」と毎日自慢しながら酒に溺れて死んでいったそうだ。
親の心、子知らず の逆バージョンで顰蹙をかっていたそうだが戦争の悲劇の一面ではあるな。




693 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/18(土) 11:25:06 ID:p2g+pwDO
ばあちゃんの話なんだが・・・・
戦前横須賀市の女学校に通っていてある日、今もある「料亭小松」
の前で馬に乗った山本五十六を見たらしい。で周りの女学校生は
黄色い声を上げていたらしい。




698 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/18(土) 20:59:36 ID:QqHVxdFZ
>>693
昔の軍人はアイドルの側面もあったのねw




694 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/18(土) 12:35:12 ID:aPzQYlrv
うちのじいちゃんの姉は戦争中に結婚したんだけど
夫は徴兵されてサイパンに連れていかれ帰って来なかった
そのじいちゃんの姉は養子を貰ったものの、養子は懐かず死ぬまでひとりぼっちだった
しかし夫の遺族年金(?)があったらしくて1$360円の時代によく外国で豪遊してたらしい
弟の孫である自分達兄弟をすごくかわいがってくれた




712 名前:コピべ 投稿日:2008/10/19(日) 02:17:56 ID:QY5Pmq6e
兵士1人が日本刀1本で100人以上斬り殺せるほどの戦闘能力と有り余る予備の日本刀を持ち、

銃剣と単発銃のみで80万人以上殺すなど、原爆以上の破壊力を持つ携行兵器を誇り

各植民地で無駄に現地人を殺してまわるほど武器弾薬が余っていて

中国で320万人もの現地労働者を動員し、そのうち100万人が死に、機密保持の為に1万人を生き埋めにするほどの労働条件でも反乱を起こさせないほどの統率能力を使って、

国境地帯に計19ヶ所、4700kmにおよぶ要塞および1700kmもの地下要塞を作り、

さらにこの超巨大要塞を60年間に渡って秘匿しつづける程、情報管理が徹底していて

沖縄で米軍上陸後も市民に玉砕命令が出せるほど命令系統がしっかりしていて

何百万人を殺しておきながら、戦後半世紀以上も、殺害時期、殺害方法、日本兵の心理状況などこと細かな内容迄隠し通す機密保持の高さを誇り

当時オランダ領だったインドネシアにも開戦前から日本軍用の慰安婦を送り込むほど先見性があり

揚子江の川幅を2m以下にしたりするほどの高い土木技術を持ち

人口20万人の南京市で30万人を虐殺し、かつその死体を1台のトラックで2週間で片付けられるほどの行動力があり

日本兵の数を上回るほどの従軍慰安婦を一日に一人あたり何十人も暴行するほど体力と食料が有り余っていて

AVが無かった時代にも関わらず慰安婦に顔射するほど独創性に富み

韓国で文化施設はもちろん一般家庭にある辞書から料理本に至るまで処分してまわるほど暇で

保護するために植民地ではなく「併合」したにも関わらず、韓国の運気を捻じ曲げるために、山の頂上に鉄杭やら真鍮杭を埋め込むほど風水に明るく

人間の脂肪から、航空燃料を作れるほど錬金術に長け

写真の影さえ消せる位の隠密行動に長け、銃殺しても血が流れない銃を開発し

韓国の優れた建築施設・街・鉄道を全て接収することなく破壊し尽くした上、新たに日本のダメな建築物に建て替えるほど資材と資財と人材が有り余っていて

当時の朝鮮の人口のおよそ半数近くを日本へピストン輸送するほど燃料と船舶が豊富で

960万平方kmもの大地をもつ中国の3分の2を支配し

家々に火を放ちまくり6年間で1万7000以上の村を焼き払うほどの行動力があり

250種類もの殺人方法を思いつくほどに残虐で

無駄に虐殺した5000万人もの民間人の死体を一カ所に集めてたっぷりとガソリンをまいて燃やすほど石油資源に余裕があり

中国の近代化を50年も遅らせるほどの徹底的な破壊を行い

わずか70万人の関東軍で戦闘の合間に20万人もの中国人慰安婦を満足させるほど絶倫で

広く険しい中国大陸を大軍勢で移動していたにも関わらず、各地区の兵士や民間人が逃げる暇も無い程のスピードで動き回るなど金メダル級の運動能力を誇り

山東省で広島+長崎の核2発分の犠牲者数を超える42万人を殺戮するほどの細菌兵器を保有し

田舎から都市部まで全ての街道を余す所無く隅々まで破壊し尽くし、さらに人気の無い山の奥深くでさえ草一本残さず毟り取る程の根気と几帳面さを兼ね揃え

11歳が戦場で暴れ回るほど若い内から逞しく、14歳で731部隊に採用されるほど医学を習得し

15歳の少年に細菌戦部隊での軍務が務まるほどの教育水準を持っていて

さらに細菌兵器開発のため20万人を生体実験出来るほど医療設備が充実しており

1941年の大東亜戦争開戦時にダム一つ作るために延べ360万人を動員し9年間に83名もの犠牲者を出し

圧倒的科学力を誇る朝鮮の反日勢力になぜか圧勝するほど運がよく

中国での最初の慰安所「大一サロン」にはハイテクエアコンを完備させ

中国呼倫貝爾市の地下に60年も見つからない、広さが東京ドーム2.5個分の毒ガス実験室を作れるほどの優れた土木技術と豊富な資源、人材を保有し

それが建設後60年間誰一人として発見できないような隠蔽を行えるほどの科学技術を誇り

半世紀以上放置されても使用出来る毒ガスを作れるほどの科学力を誇り

金の掛かる化学兵器砲弾を200万発も生産して中国全土に埋め

終戦間際の補給線が断たれた時期にマニラで一日3000人を殺害する継戦能力を保持し続け

朝鮮人を殺しまくりながら人口を2倍にし、その上でもともと無い記憶を奪えるという摩訶不思議な技術を持ち

終戦後になぜか意味の無い強制連行を行いまくるほどの軍備と余裕があり

敗戦国でありながらGHQを手玉にとって朝鮮戦争を起こすようコントロールするほど政治力と外交能力に長ける


そんな大日本帝国が敗戦したことは、人類史上最大のミステリー。




714 名前:コピべ 投稿日:2008/10/19(日) 04:54:43 ID:QY5Pmq6e
2年前旅行先での駐屯地祭で例によって変な団体が来て私はやーな気分。
その集団に向かって一人の女子高生とおぼしき少女が向かっていく。

少女「あんたら地元の人間か?」
団体「私達は全国から集まった市民団体で・・・云々」
少女「で、何しにきたんや?」
団体「憲法違反である自衛隊賛美につながる・・・云々」
少女「私は神戸の人間や。はるばる電車のって何しにここまで来たかわかるか?」
団体「・・・・?」
少女「地震で埋もれた家族を助けてくれたのはここの部隊の人や。
寒い中ご飯作ってくれて、風呂も沸かしてくれて
夜は夜で槍持ってパトロールしてくれたのもここの部隊の人や。
私は、その人たちにお礼を言いに来たんや。
あんたらにわかるか?
消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感が。
でもここの人らは歩いて来てくれはったんや・・・・」

最初、怒鳴り散らすように話し始めた少女は次第に涙声に変わっていった。
あまりにも印象的だったのではっきり覚えている。
団体は撤退。
彼女が門をくぐった時に、守衛さんが、彼女に社交辞令の軽い敬礼ではなく直立不動のまま敬礼していた。




715 名前:コピべ 投稿日:2008/10/19(日) 05:13:40 ID:QY5Pmq6e
ビスマルク海戦 ( 空襲 )の結果、陸軍の兵士を乗せた輸送船 八隻と駆逐艦 四隻が
敵機の攻撃により沈められましたが、沈没した日本の艦船から ボートや筏で逃れ、
浮遊物につかまり 漂流中の千名の兵士達に対して 、アメリカと オーストラリア軍の飛行機
が低空から機銃掃射をおこない、機関銃の弾を撃ち尽くすと基地に戻り弾を補給し、
映画撮影の カメラマンまで乗せて何度も弾の補給に往復しては攻撃を続けました。

「 決して男らしいやり方ではなかった 」 と第 五爆撃隊のある少佐は戦闘記録の中で報告
していました。「 隊員の中には気分が悪くなる者もいた 」。

救命ボートやその周辺を文字どおり 血の海に変えた その殺戮の様子を、機上から撮影した
実写フィルムが十年ほど前にオーストラリアの テレビ局から放映されて、国民に大きな
ショックを与えました。「我々は フェアーな戦をしたと思っていたのに.....と」。
( 容赦なき戦い、ジョン・ダワー著 )
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/genbaku-1a.htm

渡部昇一が『日本史から見た日本人』昭和編で、リンドバーグが米兵による日本人捕虜
虐待・殺戮の実態を告発しているのを引用して、元連合軍兵士が「日本軍に虐待された」
と訴えてくるのは、自分達の道徳的負い目を相殺したいからだろう、と指摘している。
南京大虐殺なんてのも、広島・長崎を相殺するためだしね。




719 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/19(日) 12:34:29 ID:kf0k8FA3
祖父ちゃんは湖北省鳳凰山で戦死した。
祖母ちゃんから聞いたのは、戦陣で子供の誕生を聞いた祖父ちゃんに、部隊長とかがお祝いの会を開いてくれたって事くらい。
私より若いときに亡くなった祖父ちゃん。
いつか鳳凰山に行きたいと願ってる。

もう一人の祖父ちゃんは反戦論者で特高に捕まってた。
でも死ぬまで祝日には日の丸を揚げ続けた。
どっちの祖父ちゃんも大好き。




729 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/20(月) 11:48:51 ID:JuYCj5oq
ウチの母方の爺さんは中国で戦ってたらしい。
そん時に使ってた軍刀があったらしいけど今は行方不明。
そんな爺さんも俺が小さい時に肺がんで死んだ。
今となってはそん時の話が聞けないのが惜しすぎる。幸い婆さんは生きてるので機会があれば、
何かしらの資料とかはあると思うので見てみたいと思ってたり。

父方は残念ながら親が離婚したから話を聞けないんだよねぇ。




730 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/20(月) 12:20:55 ID:U4v97dMP
私の曾祖母は、夫をフィリピン・ルソン島で亡くしました。
女手一つで四人の子供達を育てあげましたが、誰も愚痴や泣き言を聞いた事が無いそうです。
出征の前の晩、曾祖父は当時、国民学校の一年生だった祖父と妹達を布団の上で抱っこしながら、
「喧嘩しないで、仲良くすんだぞ。みんなで母ちゃんを助けてやれよ。」
と言い聞かせながら、朝まで男泣きしていた話をよくしてくれます。
「きっとあの人は、二度と帰って来れないのを、分かってたんだべなぁ。でも、あの人が見守ってくれてると思って頑張ったんだ」
そう言って、仏壇に飾られている、軍服姿の曾祖父の写真をしみじみ眺めます。




731 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/20(月) 12:56:55 ID:ZCi7SfAo
俺のお爺様は中国で、飢えに苦しんだあげく、あの、ほら人間が食べちゃいけない肉を食べたと言ってたよ、この世の物とは思えない程美味しかったらしい。そういえば俺がまるまる太った小さい子供の時、昼寝から醒める度にお爺さんが枕元で物欲しげに俺を見つめてたっけ……



734 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/20(月) 23:48:51 ID:sRtwuRkH
祖母ちゃんの話
豊後水道上を敵機が編隊を組んで北上するのを見て「日本は駄目かもわからん」と思ったって。
広島で新型の爆弾が落ちたという噂も聞いたらしい。
山奥の隠れ里みたいな田舎だけど、みんなで竹槍訓練はしたそうな。
農家だから食料には困らなかったとも。




743 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/21(火) 23:57:48 ID:8VBthsmh
父方の祖父は中支で罹患、昭和19年大阪陸軍病院で戦病死、中尉だった。
母方の祖父は召集時、体格が悪く、乙種合格、
看護兵になった。
軍医、看護兵というのは部隊では比較的大切にされたらしい。
仲が悪かったりするといざというとき、
手当てとか後回しにされたりとかあるからね。
それに戦死とかされると負傷者を
手当てする者がいなくなる。
母方の祖父は無事帰国、晩年、病気がちになったりすると、
注射とか自分で打っていたりしたらしい。
今でいうところの看護士の資格があったんだろうね。




767 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/23(木) 12:04:35 ID:yG4csF5V
ウチのジーさんは単なる歩兵だったらしく、戦争体験を聞いても「単に重い
荷物かついで歩いただけ」としか教えてくれなかった。
中国戦線でろくな戦闘もなかったらしく、実戦らしきモノはほんの数回で、
しかも敵味方戦死者なしって程度らしい。
んで、銃やらあまりに重いし、銃は捨てられないし他は生存の為に必要なん
でシンドクなったら弾を真っ先に捨てたって言ってたな。




781 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/25(土) 02:07:02 ID:3nLEyuUY
おばあちゃんが、アメリカ人がやってきて
日本人は全員殺されると思った
あの頃は生きた心地がしなかったって言ってたな
当時14歳だもん怖いよな




782 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/25(土) 05:15:29 ID:bkvlVwjG
うちのじーさんは戦闘機の整備兵だったらしい。トラック諸島?まで行ったと言っていた。
戦闘が激化する前に 上官に促されて日本に帰ってきて終戦間際は関東方面で整備してたらしい。
零戦の五十二型とかわけ分からんこと言ってたが、本当なんだろうかw
本当だったら空母にでも乗ってたのかなぁ




783 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/25(土) 05:41:20 ID:o3S6pNpV
うちの北海道のひい爺さんは第二次大戦の時満州に行ってた爺さんが生きてる時に言ってたがなんでも爺さんが住んでる町「自衛隊がある市の近く」
には地下に色々埋めてあって万が一ロシアが攻めてきたら地中からウィ~ンと大砲やらミサイルやらなんやらが出てきて「サンダーバードみたいなもんかな?」
ロシアを迎え撃つ事ができるんだぞ!と言ってたがからかわれたのだろうか?




785 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/25(土) 07:52:54 ID:0d7/hDuE
うちのじーちゃんは体調悪くて戦争行かなくて済んで
空襲で逃げてる際には1メートル先に爆弾が落ちてきたらしい。
それで助かってるから不発弾だったらしい。

ひいじいちゃんは満州行って、20人の部下を守るために
死んだと聞かされた。とても勇気ある行動で生き残った
部下たちが泣きながらひいじいちゃんの最期を語ってたらしい。




786 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/25(土) 10:12:15 ID:PlQeRtw7
俺のひい爺ちゃん、500人の部下達を全滅させたのに自分だけ生き残ったw



797 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/26(日) 00:25:08 ID:YgULCa01
俺の死んだじいさんの兄は切り込み特別攻撃隊として熊本の飛行場から爆撃機に乗り込み米軍から沖縄の飛行場を奪還するため中飛行場に強行着陸、部隊は全滅したが明け方まで飛行場を使用不能にした、義烈空挺隊



854 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/28(火) 01:22:05 ID:xzh8NCnP
こんなスレあったのね。
記録として残そう。

うちの母方のじいちゃんとばあちゃんは、共に山形の出身。
まぁ、じいちゃんはもう死んでしまったが。。
じいちゃんの家系は商売人の家系もあり、山形ではなく昭和14年に
上野で商売をするためにやってきた。

まぁ、昭和14年って、あれなんだが。。
で、じいちゃんは足が悪く、兵役検査に「乙種」合格?だったか、
兵隊に行けなかった。乙種ってダメって事だったらしい。
当時の男にとって、それは屈辱だったらしい。
悔しくて悔しくて、いつもこぼしてたってさ。

そんなじいちゃんとばあちゃんは、上野に昭和20年の2月まで居たそうな。
で、男がほとんど戦地に行って、足の悪いじいちゃんが町内会とかでも
仕切り役などをやってたそうだ。
空襲の時などは、各家の明かりなどを、黒い布で隠すなど合図をしてたらしい。
あとは、町内の見回りなど。

戦争末期にもなると、食料が配給になったりして、結構きつかったって。

で、ある時じいちゃんが、ばあちゃんに夜の見回りから帰ると大喜びで
バケツ持って来い!と言ったそうな。
何がなんだが、わからないがとりあえずバケツをじいちゃんに渡したそうな。

帰ってくると、バケツに黒いものがぎっしり。
それはザラメが溶けて固まったもの。

どこかの倉庫が空襲され、倉庫内に有った砂糖が溶け出したものを
夜の見回りの際、持って帰ってきたんだとさ。

甘いものなんて、久しぶりに食べたから、焦げてようがなんだろうが
「あの時のザラメはおいしかったぁ」と、よくばあちゃんが言ってる。

またちなみに長屋に住んでたらしいが、隣になんとか?という
落語家か漫才師が住んでたらしい。

ばあちゃんは山形の農家出身で、実家からたまに食糧が届いたけど、
隣りは生粋の江戸っ子だから、田舎からの食糧なんて届かなくて、
いつも食糧が届くと、羨ましそうに見てたって。

いっつも山形の実家から食糧が来るころになると、隣の子供が
羨ましそうに見てるから、渋々分けてあげたらしい。
子供が居なかったのもあって、弱かったって。

親が裏で指図してたのわかってたけどさ、って。

チラ裏スマソ




856 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/28(火) 03:24:41 ID:iOdc8jQ9
うちの爺様が、九九式小銃は折り畳めたとか、帝國陸軍にも、数は少ないが自動小銃があって、自分はそれを装備していたとか言ってたけどマジすか?

空挺隊?か何かの隊員だったみたいで、米軍が占領していた沖縄の基地に玉砕覚悟で強行着陸するはずだったらしいが、乗っていた輸送機が発動機の不調か何かで途中で引き返したと言っていた。

詳しい話を聞く前に天国逝っちまったのが残念。




859 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/28(火) 15:31:40 ID:iZYuzP45
>>856
「義烈空挺隊」ではないかな?




860 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/28(火) 18:04:50 ID:4kS0u57A
>>856 空挺部隊に短機関銃が支給されたってのは知ってるが百式だった気がする
勿論折り畳める




878 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/31(金) 00:13:58 ID:TLFpFTdU
>>856
それ、「義烈空挺隊」だわ。
136名の搭乗員が12機の97式重爆撃機に分乗して沖縄の米軍航空拠点に強行着陸し、駐機中の米軍機や燃料タンク、滑走路を自爆破壊する作戦だな。
資料によれば、1945年5月24日19時頃、12機のうち11機(残る1機はエンジントラブルで出発遅延)が熊本県の健軍飛行場を離陸したが、さらに1機がエンジントラブルで引き返し、10機のみで先行した。
エンジントラブルで出発が遅れた1機も間もなく離陸するが先行部隊に追いつけず、米軍機との交戦で片側エンジンに被弾し、やむなく基地に引き返してしまった。          一方、先行した10機のうち、さらに3機が基地に引き返した。
うち2機は目標の突入地点を確認できず、もう1機はエンジントラブルが理由だった。結局、先行部隊は7機となった。
米地上軍の資料によれば、22時25分、読谷飛行場に接近中の1機を対空砲火で撃墜。
同30分頃、さらに後続の3機を撃墜。地上に墜落した1機から日本兵が飛び出してきたが、間もなく射殺された。
時刻不明ながら、5機目が胴体着陸に成功。機外に飛び出た日本兵約12名が米軍機7機と燃料ドラム缶集積所を爆破炎上せしめ、他26機に損傷を与えた。
その後、日本軍機の夜襲でパニックに陥った読谷飛行場の米兵と日本兵との間で銃撃戦が始まり、日本兵の最後の一人が射殺されたのは翌25日午後1時前のことだった。
後に回収された日本兵の遺体は全部で69体だったそうだ。




883 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/31(金) 15:02:11 ID:kbcZaaC7
うちの爺さんはシベリア抑留されてたが、日本に帰ってきてからは賭け事をしなくなったらしい。
なんでも、シベリアで少ない食料を賭けの対象にしていたそうで、その経験からだとか。

勝ったのか負けたのかは聞いてないがね:p




900 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/11/02(日) 00:01:23 ID:1Rv/hr5u
オレの大叔父は国士舘出て近衛師団から憲兵下士官になって戦争中ジャワ島
(極楽)勤務だったそうだが、終戦直後、降伏拒否した部隊を説得に行って
味方から撃たれて死んだそうな。一応戦死扱いになったらしい。
土壇場で復員出来ずに本人も遺族もカワイソス。




901 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/11/02(日) 00:09:22 ID:ELqxML/7
うちの祖父は銃撃の際に溝に隠れて後ろにいた友人が死んでいたそうです。
死ぬまでの間、家族には酔っ払ってそれ以外は一切語りませんでした。
徴兵とはいえ、命を掛けたプロの生き様はどうあるべきか考えさせらた。




912 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/11/03(月) 00:21:21 ID:xSiEkvuo
ガダルカナル攻防戦 井上「お前らは2人であの蛸壺を死守しろ、敵さん3日3晩砲撃でワシらみんな死じょる思っとるさかいに、今夜あたり歩兵が山上がってくるさかい動くもん構わす撃てやな!隊長も朝まで頑張れば援軍が来るゆうとったさかい!ほなな!」
2等兵の遠藤 坂下は二人で岸辺から近い山肌の塹壕(蛸壺)で最前線の迎撃命令を与えられた
遠藤「お前、国はどこだったけ、俺は島出雲だで、まぁ生きて帰れるなんて思ってねーけどよ」
坂下「俺らぁ国は四国の愛媛ゆうとこじゃ そりゃええとこじゃよ もし今夜生き残れたらワシは船に意地でも乗って国さ帰るんじゃ、非国民言われてもかまわせん、こがな死体だらけの汚い島で蜂の巣にされよりゃマシぞ」
じいさんの回想、 夜明け近くまで何もなかったのだが夜もうっすら明けがかり太平洋の水平線が見えた時 2人の日本兵の目に映った光景は海を埋め尽くすアメリカの大艦隊でありました
井上「うわぁこれはいけんわ、どげしても勝てる相手やないわ、蛸壺守るゆう話やないがな」
坂下「あかんわ こらぁ 霧島よりデカイ船がぎょうさんおる」
その後じいさん達は命令通り蛸壺にいたのだが、敵は島の反対側に上空し他の日本兵はほぼ玉砕したそうです
じいさん達はそれでも命令通り蛸壺にとどまりました
それから一週間近く飲まず食わずで蛸壺で餓死寸前の所を米兵に捕らわれ捕虜になったそうです




966 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/11/05(水) 23:04:05 ID:2bmFE4Qh
うちのじいちゃんもよく戦争の話ししてたな、小さかったからあまり覚えてないけど 

たしか中国のほうで機関銃射ってたらしい、
慕ってた人がいたそうでその方からふかした芋をよく食べさせてもらってたって 
酔うと口ぐせが出て「侍は逃げたらあかん」で(一応貧乏侍の家系) 
足の傷跡を誇りにしてた、逃げずに正面から戦った証だと、 
芋くれた人が戦死した時の話しをした事があったんだけど、ばあちゃんも母ちゃんも泣いてたな 

残念ながら話しの内容覚えてないけどね




980 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/11/07(金) 13:54:11 ID:Gnn97PNX
婆ちゃんから聞いた話だが、戦争が終わって爺ちゃんがフイリッピン?から復員して来た。
でも優しかった爺ちゃは、まるで別人みたいに殺気立っていて、右片腕が無かった。

街に駐留してた米兵達が、右片腕が無い爺ちゃんを見るとビックリして逃げたとか言っていた。

でも時間が経つにつれて優しさを取り戻し、片腕が無くても印刷業の仕事に就いて、六人の子供達を立派に育て上げました。